suzu.photo LLC

.photoドメインを取得したのを機会にサイトを統合して、写真家鈴木豊とカメラマン鈴木豊の狭間の会社を作りました。
suzu.photo LLC スズ・フォト合同会社
本当はsuz.photoにしたかったけど、スーザンかだれかに使われていたので、suzu.photoにしました。
よろしくお願い致します。

ものづくりとは何か?

忙しくなると、本を読みたくなる。一種の逃避行動かも知れない。村上隆の本は、作品が好みではなかったので、積極的に読むことはなかったが・・・。
しかし、古本店で、たまたま、手に取った創造力なき日本 アートの現場で蘇る「覚悟」と「継続」 (角川oneテーマ21)の開いたページに「『ものづくりとは何か?』という問いにひと言でこたえるとすれば、インスピレーションです。」というフレーズが琴線に触れたので、即、買ってしまった。

タイトルからして挑戦的な言葉だが、全編ストレートな言い方でつづられた、刺激的なビジネス書だった。

「ヒエラルキーの最下層にいるアーティスト」なる村上氏の言葉で、階級社会を連想し、「下部構造(土台)が上部構造を規定する」というマルクシズムの命題を思い出した。少し穿った見方をすれば、本書はこの命題が現代ではアートインダストリーにおいてこそ当てはまり、アーティストは上部構造だけの存在と思われがちだが、アーティストを規定しているのは下部構造(土台)なのだから、しっかりとした下部構造(土台)を作らねばならず、その作り方を述べたものだ。

村上隆氏が言うところのアーティストがアートインダストリー業界で成功するための仕事術とは、次の3点に絞られるかも知れない。

「いつか世間に見直してもらえるといった考えを捨てることこそが、芸術家として身を立てる第一歩、成功するための仕事術の第一歩になるのです。」
「欧米の芸術の世界には“確固たる不文律”が存在します。」
「才能を買ってくれたハイヒエラルキーの人たちの期待を裏切らないようにしていれば、大衆には理解不能なことをしていても構わないからです。」

つまり、現代アートの顧客は、大金持ちだから、その顧客と比べたら、アーティストの存在なんて小さなもので、自分の作品が大きければ大きいほど、顧客と比べて自分は最下層であると自覚しなければならず、そういう顧客を獲得するために、また、顧客を満足させるためにしっかりとした西洋美術の文脈を身につけ、積極的に発言し、それによって世界的な評価をものにしなければならない、そして、最高の顧客をつかんだら、その人達のためだけに制作すればよい、ということでしょうか?

この本を読んでいたら、村上隆はワーグナーかなとインスピレーションした。次の読書予定、村上隆の「芸術起業論」を読むときにはローエングリンでもかけながらページを捲ってみようかな。

「土星の徴の下で」スーザン・ソンタグ著

昨夜からの続きでスーザン・ソンタグの土星の徴しの下にを読む。
思いたつといますぐ眼を通したくなる。そこでUnder the Sign of Saturn: Essays (Penguin Modern Classics)のキンドル版をダウンロードした。

まったく容赦ない。スーザン・ソンタグは、リーフェンシュタールのナチス時代の「意志の勝利」や「オリンピア」だけでなく1970年代に発表した「ヌバ」まで、ファシズムの美学に基づいた作品だと断罪している。

私たちは野町和嘉さんの「バハル」や彼の撮ったヌバを経験しているので、リーフェンシュタールの「ヌバ」は、ファッション写真/広告写真の類であることは知っている。

世間一般では評価の高いリーフェンシュタールの撮影技法などは、ソ連のドキュメンタリー映画監督ジガ・ヴェルトフと比べたら、足元にも及ばないと述べている。

スーザン・ソンタグのリーフェンシュタールに対する映像作家としての存在の全否定は、思考の実験としては気持ちがよいが、リーフェンシュタールを通して私たちが獲得した人間存在のレッドラインまで否定されるようで怖くなる。

Triumph of the will and Olympia are undoubtedly superb films (they may be the two greatest documentaries ever made, but they are not really important in the history of cinema as an art form. Nobody making films today alludes to Riefenstahl, while many filmmakers (including myself) regard Dziga Vertov as an inexhaustible provocation and source of ideas about film language. …”

“More important, it is generally thought that National Socialism stands only for brutishness and terror. But this is not true. National Socialism – more broadly, fascism – also stands for an ideal or rather ideals that are persistent today under the other banners: the ideal of life as art, the cult of beauty, the fetishism of courage, the dissolution of alienation in ecstatic feelings of community; the repudiation of the intellect: the family of man (under the parenthood of leaders). These ideals are vivid and moving to many people, and it is dishonest as well as tautological to say that one is affected by Triumph of the Will and Olumpia only because they were made by a filmmaker of genius. …”

Visualizing Japan (1850s-1930s): Westernization, Protest, Modernity

オンライン大学公開講座にVisualizing Japan (1850s-1930s): Westernization, Protest, Modernityと題された科目を発見、興味がわいた。
edXというMOOCsのひとつが運営する公開講座で、MIT(マサチューセッツ工科大学)とハーヴァード大学が行うコラボ講座だということだ。
https://www.edx.org/course/harvardx-mitx/harvardx-mitx-vjx-visualizing-japan-2331#.VAQsyUv6pqJ
初めて見るようなvisual imagesもありそうなので受けてみよう。

「ガウディX井上雄彦」展

六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開かれている「ガウディX井上雄彦」展をみた。
ーーー期待が大きかっただけに、受けた失望感(?)はかなりなものだった。ーーー自分の土俵にガウディを引っ張り込んで勝負した井上雄彦氏の一人相撲のようだ。ーーー井上雄彦ファンには壁一面の大きな絵はたまらないものだろうが、建築家アントニ・ガウディ好きにとってははったりにしか見えない

小生がこの展覧会に期待していたものは、井上雄彦氏がガウディがガウディになる瞬間をどのように捉えるか、ということだった。もちろん、これは井上雄彦氏だけにではなく、ガウディにアプローチする小生を含むすべての人に問われる課題だと思うが、「スラムダンク」や「バガボンド」で見せた若者が才能を開花させる瞬間を描くのに長けた漫画家なら、新た視点を見せてくれるだろうと期待したのだった。(Pepitaは最後まで見ることさえできなかったが。)ーーー小生の無い物ねだりなのだろうか? 井上雄彦氏がガウディに挑んだものの、巨大さに圧倒され、どうしたらいいものか?と苦悶している姿は見えるが、それでは「ガウディX井上雄彦」とはいえない。

まず、チラシの大仰なキャッチコピーに苛立った。
「ガウディの最高傑作は、その人生だった。」
「シンクロする創造の源泉」
「奇蹟のコラボレーション」
・・・

井上雄彦氏が作ったコピーでないとしても、「ガウディは謙虚だ」とわかっている井上雄彦氏が、自分の描いた絵に意味を持たせるためにだけに、ガウディの既定のパーソナリティを変えてしまってはだめだ。ーーーガウディ自身ではできなかったことも含め、ガウディは、建築家として遺された建築作品で評価されるべきだ。

キャッチコピーだけではない、キャプションも酷かった。ーーーガウディの生涯で最大のイベントは建築家になったこと(学校を卒業したこと)という趣旨のことが書かれていた。それは今回展示されたメイン資料が卒業制作の図面だということに対する照れ隠しとも居直りとも受け取れる。ーーーガウディは、建築家の資格を取ったから自動的に「ガウディ」になったわけではない。

ガウディは、世界的なアールヌーボー、特にカタロニアのモデルニスモという世紀末芸術の潮流の中で、ときには生命を懸けた断食という方法によって自らの信仰を深めた自己変革と、建築の思想および技術に対する不断の改革を通して、われわれが知っている「ガウディ」になったのだ。だから若いときの作風と晩年のそれとは大きく異なる。たとえば、サグラダ・ファミリア聖堂の生誕のファサード(19世紀設計)と受難のファサード(20世紀設計)は大きく異なるのだ。ーーー建築作品ひとつずつ時代に沿って精査すれば、ガウディがどのように自己変革をなしとげたのか(?)また抗しがたい歴史の流れの中でどのように自己実現させたのか(?)わかるはずだ。

あっ!ここでハタと気付いた。ーーー井上雄彦氏は、ガウディの少年時代と晩年しか描いていない。ーーーガウディの入口に立っただけなのだ。ーーーカサ・ブルータスで伊藤徹也さんがカサ・ミラの覗き窓に立つ井上雄彦氏を撮っていたが、こんな深い意味があったとはね。

井上雄彦氏は、普段は取材のときでもスケッチをしないらしい、びっくりだが初めて知った。だが、今回はスケッチをしたという。カサ・バトリョの椅子のスケッチ画。ーーー小さな絵だが、これが壁一面の和紙に描かれた森とも聖堂ともわからないような巨大な抽象的水墨画よりずっとよかった。

書いていくと何日も何ページも書かなくてはいけないような気がしてきたので・・・この辺で。それにしても小生のガウディ、整理し直さなければならないナー。いい機会だからやるとするか・・・

mumok:ウィーン近代美術館のCindy Sherman

ウィーン近代美術館mumok: Museum Moderner Kunstのホワイエ/エントランスの壁はCindy Shermanの作品だ。
シンディ・シャーマンは大好きだけど、森村泰昌は嫌いだ、嫌いというより森村泰昌を受け付けない感性になっている。
森村泰昌のシンディ・シャーマンのuntitled # 96をちゃかした作品を見れば、オリジナルとコピーなどという評論家が考えそうなことも含めて、頭の片隅からいなくなってくれ・・・って気持ちになる。怖いのはシンディ・シャーマンを見ると条件反射的に森村泰昌を思い出すことで、mumokに入った途端、ムカムカ、血圧が急上昇するのを感じた。おかげで本来の仕事も忘れる始末。

絵金と土佐凧

土佐凧を取材したのは2005年、その時、絵金の素晴らしさに触れ、いつかまた絵金というテーマで取材したいものだと思っていたが、土佐凧の四代目吉川登志之氏は2010年お亡くなりになり、ぐずぐずしているとダメだなぁと・・・。

絵金と吉川氏との関係は高知県立美術館のサイトが詳しい。
http://www.kochi-sk.co.jp/shop/tosa_bi/yoshi/top.htm

絵金。話題になる芝居絵屏風でなくとも吉川氏が集めた白描が絵金の才能を素で見られて素晴らしい。