明けましておめでとうございます。

明けましておめでとうございます。
昨年は変化の多い、しかもその変化が予想できない、大変面倒な年でした。
今年は、「楽」になってほしいとはいいませんが、少しは「読める」年になってほしいものです。

暮れになって大きな仕事が2つきた(実は、2日現在、まだ終わっていない)ので、年末までに「やる」といっていたホームページも手つかずの状態です。
その上、Mozillaの通知に偽装したウィルスにまで脅かされて、大変な年末でした。
おかげさま(「おかげ」と言うべきこととは思いませんが、)で、ソフト面ハード面ともに、一新せざるをえませんでした。

年賀状の印刷が間に合わなかったので、Flexibiliityを発揮した新春の挨拶は、今週末を予定しています。(ホントか!?)

写真家の先輩小松義夫さんの児童書写真集人と出会う場所 世界の市場がとてもいい。
なにがいいかって(?)、児童書という分類が無意味に思えるような、、、写真集はこう作るべきだという、最新のフォーマットが提示されているので。
40数ページの少なめの分量、写真のなかに入れ込んだキャプションというか「ただし書き」、、、写真集を考えている者にとっては「本の作り」すべてが参考になるし、元気になる。

台湾の建築家姚仁喜さんからビデオ年賀が送られてきた。
https://vimeo.com/197494373
たのしそうだなー!(普段の日常はわからないけど、、、)

、、、仕事に戻ります。

suzu.photo LLC

.photoドメインを取得したのを機会にサイトを統合して、写真家鈴木豊とカメラマン鈴木豊の狭間の会社を作りました。
suzu.photo LLC スズ・フォト合同会社
本当はsuz.photoにしたかったけど、スーザンかだれかに使われていたので、suzu.photoにしました。
よろしくお願い致します。

塙保己一

盲目の国学者塙保己一(1746〜1821年)について調べていたら、埼玉県の子ども向けパンフに「塙保己一物語」というものを見つけた。
Wikipediaより面白い。
http://www.pref.saitama.lg.jp/a0604/hanawa/documents/404314.pdf
そのパンフの最後に保己一に挑戦クイズあるので、それから、挑戦。

1.保己一が、病気がもとで失明してしまったのは、何歳の時だった?
ーーー7歳の時。

2.保己一が15歳のとき、江戸に向かう決意をしたきっかけとなった職業は?
ーーーあんま、はり。 (当道座)

3.保己一が編集・出版した「群書類従」。その群書類従の版木は全部で何枚?
ーーー17,244枚。 版木は裏表両面刷れるので約34,000ページ分。 666冊。

4.現在の大学ともいえる、保己一が設立した学問所の名称は?
ーーー和学講談所。

5.世界的偉人ヘレン・ケラーに、塙保己一のことを教えたのは誰?
Her mother. In 1937, Helen Keller came to Japan and visited Hokkiichi’s memorial house. She expressed her impression as follows: “When I was a child, my mother told me that Mr.Hanawa was your role model. To visit this place and touch his statue was the significant event during this trip to Japan. The worn desk and the statue facing down earned more respect of him. I believe that his name would pass down from generation to generation like a stream of water.”

塙保己一記念館、撮影前の予習でした。・・・

フェラーリ ラフェラーリ LaFerrari

ハッと気がつけば「この世の楽園・日本」を投稿して7ヶ月あまりたってしまった。
その間小生のブログを見た人は、「この世の楽園」で更新がないものだから、もしかして「あの世の楽園」に行ってしまったのではないか(?)と思っているかも知れない。
ーーーいいえ、あい変わらず、忙しくしてますよ。

よく他人から写真家という職業を羨ましがられる。「世界中いろんなところに行けて、美味いものを食べて、すごい経験をして・・・」などと、こちらこそ羨む職業の人からいわれることがある。
ーーー「ご冗談でしょう! 撮ること自体は楽しいけど、生活は大変なんですよ。」と昔は答えていたが、(羨ましがられる仕事が減ったせいか)、「確かに! いい経験はさせてもらっている。」と、最近、変わった。

こんな前フリで、本題へ。次の仕事はフェラーリ関連、しかもフェラーリの中のフェラーリ、ラフェラーリの撮影。

撮影前に予習しておかなければならないけど、これが楽しい!! 題して「撮影前に知っておくべきラフェラーリの100」

001 デザインはピニンファリーナPininfarinaではなく、フラヴィオ・マンツォーニFlavio Manzoni率いるフェラーリ デザイン部門。

002 Flavio Manzoniは1965年生まれのイタリア人建築家・自動車デザイナー。(建築家というところ重要!!!というのは建築物とラフェラーリが撮影テーマだから)。フィレンツェ大学建築学部でインダストリアルデサインを学び、ランチャで経験を積み、バルセロナに移ってセアトのインテリアデザインの責任者になり、…2001年デザインディレクターとしてランチャにもどり、
2004年フィアットグループのデザイン ディレクター、
2006年VWのクリエイティブ デザイン ディレクター、
2010年フェラーリのデザイン部門上席副社長、
2014年ゴールデン コンパス賞受賞、
2015年彼の手になるフェラーリの3車種 ー FXX K, カリフォルニアT、そしてラフェラーリ ー に対してレッド ドット デザイン賞、
2016年フェラーリ488でレッド ドット デザイン賞のBest of the Best受賞。
好みだね〜、彼の経歴と作品。

003 FXX Kはラフェラーリをベースにしたサーキット走行専用車。

004 先日LaFerrariのオープン トップ バージョンが発表された。即予約完売。

005 LaFerrari定冠詞をスペース入れないで表記するところが現代的。
(Ferrariという苗字が女性だとは知らなかった。苗字は女性なのだろうか? それとも自動車automobileが女性だからだろうか? )
ともかく最高のフェラーリという意味。

(一旦休憩・・・)

映画「創造と神秘のサグラダ・ファミリア」

たとえば、生誕のファサードの彫刻家外尾悦郎と受難のファサードの彫刻家ジョセップ・マリア・スビラックスが若いとき偶然バルで出くわし、もし、どちらかの腹の虫の居所が悪かったら、殴り合いの喧嘩になるのではないかと思う。それ程、二人の彫刻家の作風や考えは異なっている。

この二人だけでない。サグラダファミリアに関係するクリエイターたちは考え方が異なる人が多い。ーーーそういう彼らがサグラダファミリアという一つの場所で共同作業をする。ーーーまさに、The Mystery Of Creation、想像と神秘。

映画「創造と神秘のサグラダ・ファミリアhttp://www.uplink.co.jp/sagrada/」を見た。ーーースイス人監督のステファン・ハウプトは、クリエイターたちの「違い」をバルセロナのもつ人種の多様性として関連付けていた。ーーーでも、それは最近のことではないの?ーーー 少し違うように思う。

ここ30年間ガウディを見ているものにとって、二つの歴史的要素がサグラダファミリアの建設を大きく変えたことがわかっている。

一つは、CADの使用。石からプレキャストへと素材・工法が変わった。
もう一つは、世界遺産登録による観光客の劇的増加。結果、大収入、建設費に悩まされなくなった。

映画の中で、ニュージーランド人に建築家のマーク・バーリーが、使用したCADソフトは普通の建築用のものではなく、航空機設計用の3DCADソフトであることを明らかにしている。ーーーもともと設計図を書かないガウディの建築物には、このほうが適切だ。

大勢の観光客がもたらす収入の多さという経済的な「量」は、サグラダファミリアの建築的な「質」を変えてしまったのかもしれない。そんなことを考えさせられたドキュメント映画だった。

王立ガウディ記念講座のバセゴダ教授がガウディの言葉を引用して「神は急いでおられない。焦らなくていい」と述べていたが、そのバセゴダ教授も2012年に亡くなっている。ーーー私の写真集に対してガウディが喜ぶと言ってくれた教授だが、ガウディはこのドキュメント映画をどう思うのだろうか?

近藤三雄・齋藤雅子著 愛しの「屋上緑化考」その昔を探り、内外の今を論じ、明日を照らす

名刺の肩書きが造園伝道師、農大名誉教授近藤三雄さんの愛しの「屋上緑化考」―その昔を探り、内外の今を論じ、明日を照らすを読む。

首都高大橋ジャンクションの屋上に設けられた「目黒天空庭園」、その造園設計のバックグランドを探るため読み始めたが、日本の「屋上緑化」の歴史や培った知恵が学べて楽しい。
目黒区役所本庁舎屋上庭園「目黒十五庭」から大橋ジャンクションの「目黒天空庭園」へ至る過程は、まさに造園伝道師としての活動報告だ。

今年の3月フランスで、新設商業ビルの屋上緑化・ソーラーパネル設置を義務化する「グリーン屋根」法の施行のニュースがあった。
「都市部の商業地域で新たに建設されるビルの屋上部分に、太陽光パネルを設置するか、屋上緑化するかのどちらかを義務付ける」法律。
屋上庭園とソーラーパネルとを同じ地平で語れない(写真家の)小生は、造園伝道師近藤三雄さんの本で心強くなった。
都市は美しくなければならないからねぇ。

9月18日

今日9月18日午後5時に新国立競技場のコンペが締め切られた。
隈研吾ー大成ー梓設計チームと伊東豊雄ー竹中・清水・大林ー日本設計チームの一騎打ちになるらしい。
5年先未来の「わくわく感」はなくなった。
暗雲垂れ込める新国立騒動のなかで、先日、ザハ事務所が出した反論ビデオが一筋の光線のように思えた。その光もいまはない。

安保法案が参院でも可決成立しそうだ。

84年前の9月18日満州事変(中国名九一八事変)が起きた。
15年戦争の始まりの日だ。
中国にとっては918と919とでは意味が違う。
野党の問責攻勢で日を跨ぎそうだということに一縷の希望を見出す自分が哀しい。

「土星の徴の下で」スーザン・ソンタグ著

昨夜からの続きでスーザン・ソンタグの土星の徴しの下にを読む。
思いたつといますぐ眼を通したくなる。そこでUnder the Sign of Saturn: Essays (Penguin Modern Classics)のキンドル版をダウンロードした。

まったく容赦ない。スーザン・ソンタグは、リーフェンシュタールのナチス時代の「意志の勝利」や「オリンピア」だけでなく1970年代に発表した「ヌバ」まで、ファシズムの美学に基づいた作品だと断罪している。

私たちは野町和嘉さんの「バハル」や彼の撮ったヌバを経験しているので、リーフェンシュタールの「ヌバ」は、ファッション写真/広告写真の類であることは知っている。

世間一般では評価の高いリーフェンシュタールの撮影技法などは、ソ連のドキュメンタリー映画監督ジガ・ヴェルトフと比べたら、足元にも及ばないと述べている。

スーザン・ソンタグのリーフェンシュタールに対する映像作家としての存在の全否定は、思考の実験としては気持ちがよいが、リーフェンシュタールを通して私たちが獲得した人間存在のレッドラインまで否定されるようで怖くなる。

Triumph of the will and Olympia are undoubtedly superb films (they may be the two greatest documentaries ever made, but they are not really important in the history of cinema as an art form. Nobody making films today alludes to Riefenstahl, while many filmmakers (including myself) regard Dziga Vertov as an inexhaustible provocation and source of ideas about film language. …”

“More important, it is generally thought that National Socialism stands only for brutishness and terror. But this is not true. National Socialism – more broadly, fascism – also stands for an ideal or rather ideals that are persistent today under the other banners: the ideal of life as art, the cult of beauty, the fetishism of courage, the dissolution of alienation in ecstatic feelings of community; the repudiation of the intellect: the family of man (under the parenthood of leaders). These ideals are vivid and moving to many people, and it is dishonest as well as tautological to say that one is affected by Triumph of the Will and Olumpia only because they were made by a filmmaker of genius. …”

「回想 20世紀最大のメモワール」レニ・リーフェンシュタール著

なぜ、いままたレニ・リーフェンシュタールの自伝を読んだかのか?

回想―20世紀最大のメモワール (上) (文春文庫)回想―20世紀最大のメモワール (下) (文春文庫)

先日の中国の軍事パレードを見て、彼女のナチス党大会の記録映像「意志の勝利」を思い出したので。・・・連想がはじけた。

「意志の勝利」は単なる記録映画ではない、ヒトラーの「美意識」をビジュアル化したようなプロパガンダ映画だ。

同じくヒトラーの「美意識」を具体化したアルベルト・シュペーアが懲役20年なのに、彼女は、ナチ党員でなかったとはいえ、無罪というのはどういうわけか?

リーフェンシュタールがシュペーアに宛てた手紙のなかに二人のかなでの線引きが示されていた。

「・・・それでもーーーこう書くことをお許しくださいーーーあなたは何百万回と繰り返され、決して止むことのないであろう質問に十分な回答を与えてはいません。それは「ドイツ国民だけではなく、多くの外国人にまであれほど感銘を与えた、いや魔法にまでかけてしまったヒトラーの魅力とは何か?」。その原因はだぶん、あなたがその人のネガティブな面をポジティブな面よりもより強く強調したことにあるのではないでしょうか。あなたが記しているようなヒトラーは、善きにつけ、悪しきにつけ、普通ではことはやり遂げるかもしれませんが、全世界を分解するような真似はできないでしょう。ところが、現に彼はそれにほとんど成功しかかったのです。ここで私たちの見解は分かれるのです。・・・」

リーフェンシュタールにすれば、全権掌握前に彼女やシュペーアの隠れた才能を見いだしたプロデューサー能力がヒトラーの魅力ということになる。

彼女は非ナチ化裁判で「ナチスの同調者だが、戦争犯罪への責任はない」との理由で無罪となった。

スーザン・ソンタグの土星の徴しの下にが読みたくなった。

「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本一夫著

21年前に出版された幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)を今日読むと、現在起きている問題は80年前にも同じようにあったことがわかる。そして問題山積の背景には責任の不在があり現代に通じる。政府や日本側オリンピック関係者の物事の決め方は80年間あまり変わっていないこともわかる。私達が参考にすべきは1964年のオリンピックではなく、失敗からより多く学ぶという意味で、1940年の幻のオリンピックかも知れない。ーーー今日の必読書かも。

招致から返上までの歴史、特に1936年7月31日「決定」から1939年7月15日「返上」を閣議決定するまでは、いま私達の目の前で起きている新国立の白紙撤回や安保法案の強行採決など、加えてこの時期に政府が発表した日中中間線近くの中国ガス田施設の写真公開と中止要求などの日中関係を、無意識のうちに重ね合わせて読んでしまう。

たとえば、(80年前の)メーンスタジアムの建設に焦点をあてて拾い読みをすれば、今日の新国立の白紙撤回の問題がより鮮明になる。(『メーンスタジアムはどこに』と『着工できない競技場』の二項目からの長い引用ですが、  戦前のほうが透明性があったこともわかるので、お許しを。)

「東京市は当初、メーンスタジアムをはじめとする主要競技施設の建設場所として、隅田川河口付近の月島埋立地をあてる計画を立てていた。関東大震災後の都市計画の一環として大々的に埋立地を造成し、そこで万国博覧会とオリンピックを開催するつもりだったのである。・・・
「このため、『第十二回国際オリンピック大会招致委員会』は1936年3月16日、既述のようにメーンスタジアムの設置場所を明治神宮外苑とし、外苑競技場の敷地を拡張して新に十二万人収容の競技場を建設するという『招致計画大綱』をまとめている。もっとも、この『大綱』はIOCベルリン総会を前に急遽作成したものであり、委員会では一部委員から異論も出たため、場合によれば建設地の変更もあり得るという条件が付帯されていた。
「東京市長牛塚虎太郎は『大綱』作成後も月島埋立地案に強く執着していた。・・・『神宮外苑が適当』と主張するIOC委員副島道正と対立している。だが、副島以外にも月島案への反対意見が多く、牛塚も自説を撤回せざるを得なかった。
「1936年12月24日の第一回組織委員会総会の席上、牛塚はメーンスタジアムの候補地として代々木、品川、駒沢、上高井戸、神宮外苑など九ヵ所をあらためて提案し、至急調査するように要望した。これに対し、体協新会長大島又彦は、明治神宮を中心とする地域に各種競技場を建設する案を提出し、組織委員会内に設けられた競技場調査委員会は、第一候補地代々木(明治神宮に隣接する陸軍練兵場)、第二候補地千駄ヶ谷(神宮外苑競技場西側一帯の民有地)、第三候補知青山射撃場跡、第四候補地駒沢ゴルフ場など、第七候補地までを選定する。
「・・・体協理事会は二月四日、第三候補の青山射撃場跡を推薦する方針を決定したが、その四日後、今度はIOC委員副島道正が、神宮外苑を大拡張してメーンスタジアムのほか水泳競技場や球技場も同一地域内に建設する試案を発表すると、同じIOC仲間の嘉納治五郎が『途方もない夢物語だ』と反対。・・・
「・・・議論百出の末に組織委員会は、1937年2月23日、メーンスタジアムには神宮外苑競技場を改造してあてることをようやく決定した。
「2月24日付『読売新聞』で、同社運動部長星野龍猪は組織委員会の内部不統一ぶりをきびしく批判した。『・・・端なくも『IOC委員と体協とを含めた』わがNOCの甚だしい無統制が暴露され、その虚に乗じて東京市側が頻りと駆引戦術を行った結果、会議の方向は兎もすれば軌道はづれがちであり、このまま推移すれば『東京大会が果たして無事に開けるか?』とまで憂慮の起ってくるのも至極当然といはねばならない。』
「東京招致に協力し、同年春に訪日した米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランドも、帰国すると早速、日本の組織委員会の内輪もめに懸念を表明したほどであった。さらに、この神宮外苑競技場改造計画は、内務省神社局の横槍で暗礁に乗り上げてしまう。
「5月18日、第十五回組織委員会総会に内務次官代理として出席した神社局長児玉九一は、『風致上、管理上の問題および明治神宮外苑が国民の浄財で造園された記念物であることなどから、内務省としては同競技場の改造計画案には同意し難い』と反対意見を述べ、翌日、十九日の組織委常務委員会に外苑接続の民有地を買収して新競技場を建設するという内務省案を提出した。・・・
「・・・財政面で頭を痛めていた組織委員会に朗報が飛び込んできた。東京オリンピックの準備に拍車をかけるため、東京市が負担する競技場建設費六百万円、大会関係街路修築費一千万円を支出することが、3月29日の東京市会で満場一致で可決されたのである。
「神宮側には、明治天皇ゆかりの地明治神宮外苑は『極メテ由緒アル場所』で『一木一石たりともゆるがせにできぬ』と、かたくなな態度をとる者がいて、いっこうに交渉が進展しなかった。
「組織委員会と内務省が再三折衝した結果、内務省は神宮外苑競技場の最小限度の改造を認め、収容能力五万数千人、工事費四百五十三万四千百円とする案を提示した。が、組織委員会や東京市は内務省案に首をかしげた。当時の神宮外苑競技場の収容力は約四万人だが、これでは一万数千人しか増えない。そのために四百五十万円余もの予算を費消するのはいかがなものか、というわけである。
「・・・もともと東京市は収容人員十二万人以上の巨大競技場とするように要望していた。建設問題がこじれたことから、その後は最低十万以上と多少要求をさげていたが、スケールの大きい競技場を切望する態度は変わっていない。・・・
「そこで浮上したのが、神宮外苑競技場に代わって世田谷の駒沢ゴルフ場跡地にメーンスタジアムを建設する案である。
「・・・神宮外苑競技場の改造に固執していたIOC委員副島道正も、大スタジアム建設に意気込む東京市の熱意に押され、結局は計画変更に同意する。・・・副島はみずからIOC会長ラトゥールに国際電話をかけ、駒沢案についての了承をとりつけた。
「組織委員会は4月23日、第二十五回総会で外苑競技場改造案を放棄し、水泳競技場、オリンピック選手村と合わせて、駒沢にメーンスタジアムを建設することを正式決定する。
「メーンスタジアムは十月上旬に起工し、大会二ヶ月前の1940年7月に竣工、水泳プールと選手村は1940年3月の完成を見込んでいた。

「日中戦争の長期化にともない、国内では諸物資の統制を厳重にし、需要を抑制する動きが日増しに強くなる。当然のことながら、それは東京オリンピックの競技場建設にも重大な影響を与えることが憂慮された。なかでも、多くの鉄材を必用とするメーンスタジアムについては、はたしてすんなりと着工できるのか、建設財源として東京市の起債が認可されるのかが大きな問題であった。「・・・『オリンピックの競技場をつくるか、駆逐艦一隻をつくるか』の選択が真剣に論じられるようになった。・・・
「東京市側は、メーンスタジアムを一部木造とするように設計変更し、一千トンは必用といわれた鉄材の量を六百トンにまで削ったが、それでも資材が得られる見通しは立たなかった。磯村英一(当時東京市「紀元二千六百記念事業部」総務課長)は「鉄材使用について政府の承認が得られなかったことが、大会返上の決定的要因だったのではないか」と述べている。」