「幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで」橋本一夫著

21年前に出版された幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで (講談社学術文庫)を今日読むと、現在起きている問題は80年前にも同じようにあったことがわかる。そして問題山積の背景には責任の不在があり現代に通じる。政府や日本側オリンピック関係者の物事の決め方は80年間あまり変わっていないこともわかる。私達が参考にすべきは1964年のオリンピックではなく、失敗からより多く学ぶという意味で、1940年の幻のオリンピックかも知れない。ーーー今日の必読書かも。

招致から返上までの歴史、特に1936年7月31日「決定」から1939年7月15日「返上」を閣議決定するまでは、いま私達の目の前で起きている新国立の白紙撤回や安保法案の強行採決など、加えてこの時期に政府が発表した日中中間線近くの中国ガス田施設の写真公開と中止要求などの日中関係を、無意識のうちに重ね合わせて読んでしまう。

たとえば、(80年前の)メーンスタジアムの建設に焦点をあてて拾い読みをすれば、今日の新国立の白紙撤回の問題がより鮮明になる。(『メーンスタジアムはどこに』と『着工できない競技場』の二項目からの長い引用ですが、  戦前のほうが透明性があったこともわかるので、お許しを。)

「東京市は当初、メーンスタジアムをはじめとする主要競技施設の建設場所として、隅田川河口付近の月島埋立地をあてる計画を立てていた。関東大震災後の都市計画の一環として大々的に埋立地を造成し、そこで万国博覧会とオリンピックを開催するつもりだったのである。・・・
「このため、『第十二回国際オリンピック大会招致委員会』は1936年3月16日、既述のようにメーンスタジアムの設置場所を明治神宮外苑とし、外苑競技場の敷地を拡張して新に十二万人収容の競技場を建設するという『招致計画大綱』をまとめている。もっとも、この『大綱』はIOCベルリン総会を前に急遽作成したものであり、委員会では一部委員から異論も出たため、場合によれば建設地の変更もあり得るという条件が付帯されていた。
「東京市長牛塚虎太郎は『大綱』作成後も月島埋立地案に強く執着していた。・・・『神宮外苑が適当』と主張するIOC委員副島道正と対立している。だが、副島以外にも月島案への反対意見が多く、牛塚も自説を撤回せざるを得なかった。
「1936年12月24日の第一回組織委員会総会の席上、牛塚はメーンスタジアムの候補地として代々木、品川、駒沢、上高井戸、神宮外苑など九ヵ所をあらためて提案し、至急調査するように要望した。これに対し、体協新会長大島又彦は、明治神宮を中心とする地域に各種競技場を建設する案を提出し、組織委員会内に設けられた競技場調査委員会は、第一候補地代々木(明治神宮に隣接する陸軍練兵場)、第二候補地千駄ヶ谷(神宮外苑競技場西側一帯の民有地)、第三候補知青山射撃場跡、第四候補地駒沢ゴルフ場など、第七候補地までを選定する。
「・・・体協理事会は二月四日、第三候補の青山射撃場跡を推薦する方針を決定したが、その四日後、今度はIOC委員副島道正が、神宮外苑を大拡張してメーンスタジアムのほか水泳競技場や球技場も同一地域内に建設する試案を発表すると、同じIOC仲間の嘉納治五郎が『途方もない夢物語だ』と反対。・・・
「・・・議論百出の末に組織委員会は、1937年2月23日、メーンスタジアムには神宮外苑競技場を改造してあてることをようやく決定した。
「2月24日付『読売新聞』で、同社運動部長星野龍猪は組織委員会の内部不統一ぶりをきびしく批判した。『・・・端なくも『IOC委員と体協とを含めた』わがNOCの甚だしい無統制が暴露され、その虚に乗じて東京市側が頻りと駆引戦術を行った結果、会議の方向は兎もすれば軌道はづれがちであり、このまま推移すれば『東京大会が果たして無事に開けるか?』とまで憂慮の起ってくるのも至極当然といはねばならない。』
「東京招致に協力し、同年春に訪日した米国IOC委員ウィリアム・メイ・ガーランドも、帰国すると早速、日本の組織委員会の内輪もめに懸念を表明したほどであった。さらに、この神宮外苑競技場改造計画は、内務省神社局の横槍で暗礁に乗り上げてしまう。
「5月18日、第十五回組織委員会総会に内務次官代理として出席した神社局長児玉九一は、『風致上、管理上の問題および明治神宮外苑が国民の浄財で造園された記念物であることなどから、内務省としては同競技場の改造計画案には同意し難い』と反対意見を述べ、翌日、十九日の組織委常務委員会に外苑接続の民有地を買収して新競技場を建設するという内務省案を提出した。・・・
「・・・財政面で頭を痛めていた組織委員会に朗報が飛び込んできた。東京オリンピックの準備に拍車をかけるため、東京市が負担する競技場建設費六百万円、大会関係街路修築費一千万円を支出することが、3月29日の東京市会で満場一致で可決されたのである。
「神宮側には、明治天皇ゆかりの地明治神宮外苑は『極メテ由緒アル場所』で『一木一石たりともゆるがせにできぬ』と、かたくなな態度をとる者がいて、いっこうに交渉が進展しなかった。
「組織委員会と内務省が再三折衝した結果、内務省は神宮外苑競技場の最小限度の改造を認め、収容能力五万数千人、工事費四百五十三万四千百円とする案を提示した。が、組織委員会や東京市は内務省案に首をかしげた。当時の神宮外苑競技場の収容力は約四万人だが、これでは一万数千人しか増えない。そのために四百五十万円余もの予算を費消するのはいかがなものか、というわけである。
「・・・もともと東京市は収容人員十二万人以上の巨大競技場とするように要望していた。建設問題がこじれたことから、その後は最低十万以上と多少要求をさげていたが、スケールの大きい競技場を切望する態度は変わっていない。・・・
「そこで浮上したのが、神宮外苑競技場に代わって世田谷の駒沢ゴルフ場跡地にメーンスタジアムを建設する案である。
「・・・神宮外苑競技場の改造に固執していたIOC委員副島道正も、大スタジアム建設に意気込む東京市の熱意に押され、結局は計画変更に同意する。・・・副島はみずからIOC会長ラトゥールに国際電話をかけ、駒沢案についての了承をとりつけた。
「組織委員会は4月23日、第二十五回総会で外苑競技場改造案を放棄し、水泳競技場、オリンピック選手村と合わせて、駒沢にメーンスタジアムを建設することを正式決定する。
「メーンスタジアムは十月上旬に起工し、大会二ヶ月前の1940年7月に竣工、水泳プールと選手村は1940年3月の完成を見込んでいた。

「日中戦争の長期化にともない、国内では諸物資の統制を厳重にし、需要を抑制する動きが日増しに強くなる。当然のことながら、それは東京オリンピックの競技場建設にも重大な影響を与えることが憂慮された。なかでも、多くの鉄材を必用とするメーンスタジアムについては、はたしてすんなりと着工できるのか、建設財源として東京市の起債が認可されるのかが大きな問題であった。「・・・『オリンピックの競技場をつくるか、駆逐艦一隻をつくるか』の選択が真剣に論じられるようになった。・・・
「東京市側は、メーンスタジアムを一部木造とするように設計変更し、一千トンは必用といわれた鉄材の量を六百トンにまで削ったが、それでも資材が得られる見通しは立たなかった。磯村英一(当時東京市「紀元二千六百記念事業部」総務課長)は「鉄材使用について政府の承認が得られなかったことが、大会返上の決定的要因だったのではないか」と述べている。」