リャンクール岩礁 Liancourt Rocks:松島〜リャンコ島〜竹島4

郷土史家奥原碧雲の書いた中井養三郎伝が本人および当時のアシカ猟の様子を描き面白い。

「竹島経営者中井養三郎氏立志伝」明治39年(1906)年 奥原碧雲著
http://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&ved=0CDEQFjAC&url=http%3A%2F%2Fwww.pref.shimane.lg.jp%2Fsoumu%2Fweb-takeshima%2Ftakeshima04%2Ftakeshima04_01%2Findex.data%2F08.pdf&ei=DKE_UJz8MoKNmQWi5oFI&usg=AFQjCNFaXwxBFkhKZ6g-5Ju6IcMY3bcBUQ

りゃんこ島領土編入並に貸下願
http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/teikokuhanto-1904/

ノンフィクション新世紀石井光太責任編集河出書房新社

錚々たる顔ぶれが並ぶのでノンフィクション本のガイドブックかと思いきや(そういうページもあったが)、さにあらず、現在のノンフィクション業界を捉えたノンフィクションだった。おもしろい!
石井光太責任編集 ノンフィクション新世紀 —世界を変える、現実を書く。

組子ー(꽃살)창호ー花格に見る日中韓文化の流れ。

日本の伝統工芸組子の技術を韓国語、中国語ではどのようにいうかを考えると、飛鳥時代の建築技術、その伝播の様子が垣間見える。

仏教伝来とともに寺院建築の技術も日本に伝わる。
建築技術の中でも組子は日本独特=和の進化を見せた。

日本独特の進化とは?:より細密に、より簡素に、より抽象的に。

日本最古の組子は法隆寺金堂の高欄に見られる卍崩しだとされる。
しかし、木を組むということではたしかに組子だが、和様の組子になっていない。

法隆寺でいえば回廊の連子窓(れんじまど)も組子のルーツのひとつかもしれない。

組子に近い中国語は「花格」(フアグァ)という。ーーーどういうものかグーグルの画像検索で見てください。

中国語の「花格」に近い韓国語は「꽃살」(コッサル)コッは花、サルは桟。ーーーこれもグーグルの画像検索で見てください。(サルは桟の他に赤肉という意味もあるので、花のように盛りつけた肉が多く出てきて驚かれるかもしれません)そのなかに組子らしきものが出てくると思いますので大きくして見てください。ーーーパーツのひとつひとつが花びらのようになっていて組み上げると花模様になる。

中国の花格は格子に重点を置き、韓国の「꽃살」(コッサル)は花に重点を置いている。
組子に近いのは花格で、「꽃살」(コッサル)は、組子というより花狭間(はなざま)という組子に花模様の透かし彫りを配した技法があるが、それに近い。

窓は昔間戸といわれていた。窓=間戸ー窗户(チュァンフ)ー창호(窓戸=チャンホ)。

(つづく)

リャンクール岩礁 Liancourt Rocks:松島〜リャンコ島〜竹島3

韓国人の友人とは領土問題を話題にはけっしてしないだろう。
お互い現状どうすることも出来ないとわかっているからだ。

「竹島は歴史的にも国際法上も、日本の領土であることは何の疑いもありません。」日本の首相という立場なら当然の言葉だが、「独島は歴史的、地理的、国際法的に明白な韓国固有の領土で、領土紛争自体が存在しない。」という韓国政府の論評に対向する発言としてはお粗末だ。

島根県の竹島編入告示1905年2月22日のちょうど半年前、韓国を事実上占領下におく第一次日韓協約が1904年8月22日締結された。さらにおよそ9ヶ月後には韓国を被保護国にする第二次日韓協約は1905年11月17日締結された。・・・

(パラダイムシフトへは遠いナ・・・またにしよう)

リャンクール岩礁 Liancourt Rocks:松島〜リャンコ島〜竹島2

(最近の竹島や尖閣列島をめぐる事件はあえて無視して)
さて、
1905年竹島(Liancourt Rocks)をリャンコ島として領土編入しておけば、現在のような領土問題に発展しなかったのではないか。
ーーーなぜなら、近代までリャンクール岩礁(竹島)は、日本の漁民にとっては、(新羅時代から韓国領の)鬱陵島とセットで考えていた歴史があり、空島政策で無人島になったいた鬱陵島へ行く中継地点であり、江戸幕府に否定却下されたが、鬱陵島と一緒に2島の領有意欲もあったので問題を複雑にした。それが岩礁とはいえひとつの島として認識されるようになったのが、1849年フランスの捕鯨船に発見され、西洋の地図に載ってからだ。それ以降、日本の漁民にはリャンクール岩礁がなまってリャンコ島と呼ばれていた。だからこそ「りゃんこ島」として編入すべきだった。
鬱陵島の旧日本名の竹島と命名して領土編入したものだから、問題をさらに複雑にし、国家の意志を乱暴なものとした。1905年は朝鮮・満州の権益をロシアと争う日露戦争の最中だし、大韓帝国を併合する5年前という時代背景がある。
戦後処理にしても、リャンコ島としておけば、鬱陵島は当然返還されても、竹島(リャンクール岩礁)は外されなかったかもしれない。

リャンクール岩礁 Liancourt Rocks:松島〜リャンコ島〜竹島

竹島、韓国名独島;争点を浮かび上げるため、敢えてリャンクール岩礁(Liancourt Rocks)と呼んでみる。

1849年1月27日(嘉永2年、朝鮮憲宗15年)、フランスの捕鯨船リャンクール号(Le Liancourt)海図に載っていない岩礁を(座礁しかけて)発見、リャンクール岩礁と命名。
   同年日本では、アメリカ軍艦プレブル号が長崎に来航し、前年に漂着したラゴダ号の船員と英語を教えるために密入国したラナルド・マクドナルド(Ranald Macdonald)を受け取り退去する事件があり、1853年にはペリーの浦賀来航。
   朝鮮では1845年、イギリス軍艦サマラン号(Samarang)が政府の許諾なしに済州島と西海岸を測量して帰る事件があり、1846年にはフランス海軍がキリスト教徒弾圧を口実に、軍艦3隻を率いて国書を携えて開国を迫る事件が発生した。
1875年江華島事件。
1876年日朝修好条規。
1882年壬午事変。
1894年7月〜1895年3月、日清戦争。
1897年〜1910年、大韓帝国。
1900年大韓帝国勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正するの件
第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島(現竹島とは別)、石島を管轄すること
1904年2月〜1905年9月日露戦争; 
 1904年2月23日日韓議定書。
 1904年8月22日第一次日韓協約。
 1905年1月28日日本政府はリアンクール岩礁を竹島として島根県隠岐島の所管とする閣議決定。2月22日島根県告示第40号により閣議決定の内容を告示。
 1905年8月島根県知事竹島視察。

1906年3月26日夕刻島根県45名の大視察団を竹島に出す。3月27日午後、調査の後、海が荒れてきたので、(韓国領の)鬱陵島へ避難、3月28日午前8時ごろ視察団の代表十数名(島根県庁の第三部長神西由太郎、隠岐島島司東文輔ほか)が鬱陵郡守の沈興沢(シム・フンテク)を表敬訪問。会談の中で初めて沈興沢はリアンクール岩礁が竹島として日本の領土になったことを知った。驚いて上級官庁に報告書を出す。上級官庁の江原道觀察使署理春川郡守李明來(イ・ミョンネ)は、さらに上級の議政府参政大臣(首相)朴斉純(パク・チェスン)に、1906年4月29日、届けた。5月10日議政府参政大臣(首相)朴斉純(パク・チェスン)報告書の返答。

文書番号 報告書号外
発送日 光武十年四月二十九日(1906年04月29日)
発送者 江原道観察使署理春川郡守 李明來
受取人 議政府参政大臣 閣下
鬱島郡守沈興澤報告書を内開するに、本郡所属独島は外洋百余里の外にはあるが、本月初四日辰時量(3月29日午前8時)に輪船一隻が郡内道洞浦に来舶した。そして日本人官人一行が官舍に到り、独島が現在日本の領地故に視察に来到したという。その一行とは日本島根県隠岐島司の東文輔及び事務官の神西田太郞、税務監督局長 吉田平吾、分署長警部 影山巖八郞、巡査一人、会議一人、医師、技手各一人、其外隨員十余人が、まず戸数や人口、土地、生産量を質問し、さらに人員及び経費が幾らかについて質問した、諸般事務を視察して記録したことを報告し、照会いたします。

指令 第3号
報告書を閲覧。独島が日本領地の話は根拠のないこと。その島の形状と日本人の行動を更に捜査し報告する事。
5月10日

原文:
발송일 光武十年四月二十九日(1906년 04월 29일)
발송자 江原道觀察使署理春川郡守 李明來
수신자 議政府參政大臣 閤下
鬱島郡守 沈興澤 報告書內開에 本郡所屬獨島가 在於外洋百餘里外이살더니 本月初四日辰時量에 輪船一隻이 來泊于郡內道洞浦 而日本官人一行에 到于官舍야 自云獨島가 今爲日本領地故로 視察次來到이다 이온바 其一行則日本島根縣隱技島司 東文輔及事務官 神西田太郞 稅務監督局長 吉田平吾 分署長警部 影山巖八郞 巡査一人 會議一人 醫師技手各一人 其外隨員十餘人이 先問戶總人口土地生産多少고 且問人員及經費幾許諸般事務을 以調査樣으로 錄去이기 玆에 報告오니 照亮시믈 伏望等因으로 準此報告오니 照亮시믈 伏望.

指令 第三號
來報 閱悉이고 獨島便地之說은 令屬無根니 該島形便과 日人如何行動을 更爲査報 事.
五月十日

上の報告書が独島という名称がはじめて公文書に現れたものだ。

韓国政府は、独島の旧称が1900年の勅令のなかの石島だと主張しているが、論理的におかしい。
なぜなら、もしリャンクール岩礁が石島なら、鬱島郡守の沈興澤は、本郡所属石島が日本領になった云々と報告しなければならなかったわけだし、もし政府が石島を独島に名称変更したのなら、勅令で公告しなければならなかった、かりに石島が独島の間違い(方言での音が似ているため)だとしても下級官吏が上級官庁に無断で島名変更など出来るはずもない。 ーーー石島と独島とは無関係だ。
また、本郡所属の独島としたのは鬱島郡守沈興澤の法的な根拠がない。
さらに、韓国政府はリャンクール岩礁が512年于山島が新羅に帰属したときから続く歴史を持つ自国の領土といっても、歴史のリンクが一箇所でも切れてしまっていては、歴史的固有の領土とはいえない。
于山島(512年)ー三峰島(1471年)ー可支島(1794年)ー石島(1900年)X 独島(1906年)

20世紀初頭当時、日本の漁民はリャンクール岩礁をリャンコ島と呼び、朝鮮の漁民は独島と呼んだ、という調査記録がある。日露戦争作戦行動中の軍艦新高の戦時日誌、1904年(明治37年)9月25日鬱陵島でリャンクール岩礁に実際に行ってみた人から聴取した情報として「25日(月)…松島(鬱陵島)ニ於テ『リアンコルド』岩 実見者ヨリ聴取りタル情報 『リアンコルド』岩 韓人之ヲ独島ト書シ 本邦漁師達略シテ『リヤンコ』島と呼称セリ…」とある。調べたかぎりでは、独島という呼称が記された最初の文献はこの日誌だ。

漁民は両国とも古くからリャンクール岩礁の存在を知っていたようだ。しかし、両国の漁民ともリャンクール岩礁に長期間継続的に定住したことはなかったようだ。だから、領土編入が出来たわけだ。

江戸時代にはリャンクール岩礁は松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていた。西洋では、1787年フランスは鬱陵島ダージュレー(Dagelet)島と名付け、1789年イギリスは鬱陵島をアーガノート(Argonaut)島と名付けた。同じ鬱陵島なのですが、緯度が1度ほど(実距離にすると90キロほど)違っていたので別の島と思われ、西洋の地図に2つの鬱陵島が描かれていた。1840年シーボルトが西洋の地図を基に日本地図を製作したときアーガノート島を竹島、ダージュレー島を松島の名称を当てはめた。(西洋の地図にリャンクール岩礁が描かれる前のことだから、仕方がないといえば仕方のないことだが。)1854年ロシア軍艦の測量でアーガノート島の位置に鬱陵島が現存しないことがわかった。竹島と呼ばれていた鬱陵島が地図から消え(シーボルトが)松島と呼んだ鬱陵島が地図に残った。それ以降、日本の漁民は、松島が鬱陵島になったものだから、リャンクール岩礁のことをリャンコ島と呼んだ。したがって1904年隠岐の漁業者中井養三郎が「領土編入並びに貸下願」を政府(内務省、外務省、農商務省)に提出したときはリャンコ島としてだ。ところが、政府から島名について意見を求められた隠岐島司の東文輔は、リャンコ島ではなく、誤称によってなくなってしまった(鬱陵島の旧日本名)竹島を復活させるべきだと進言した。結果、その意見が通りリャンクール岩礁は竹島として島根県に編入された。ーーーこの島名変更も鬱陵島への思惑が現れていて問題を複雑にした原因のひとつだ。

韓国は日韓併合のはじまりが1905年の竹島編入だと捉えているようだが、日露戦争の勝敗を決する日本海海戦(1905年5月27日28日)前のことだし、事実、中井養三郎が「領土編入並びに貸下願」を内務省に申請したとき、日露戦争中を理由に却下されている、明治維新から日朝関係史の流れの中で捉えても竹島の領土編入が日韓併合のはじまりとはいえないだろう。